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小川縫製のあゆみ


代表取締役・小川良雄の語りから紐解く
小川縫製 はじまりとこれから

創業のきっかけは、シャツの飛び込み営業

小川縫製の歴史は、今から70年以上前。戦後間もない1950年頃までさかのぼります。

当時の浜松市は綿織物の産地として知られており、小川縫製のある浜北市(現 浜松市浜北区)にも数多くの織物・縫製業者が存在していました。

ある日のこと、私の父が10枚ほどの野良シャツ(織りっぱなしの生地で作られたシンプルなシャツ)を携えて家に帰ってきました。聞くと、知り合いの縫製屋さんから譲り受けてきたものらしく「はぎれなどの余った生地で作られたもので、傷はあるけど質の良いシャツだ」とのことでした。父はシャツの束を私に手渡すと、こう命じました。「このシャツを売ってきてくれないか?」。

私は言われるがままに野良シャツを自転車にくくりつけ、近所の商店街へと向かいました。そして、洋品店を見つけては「シャツがあるんですけど買ってくれませんか?」と飛び込み営業をしていきました。これが思っていた以上の大好評だったんですよね。「質の良いシャツなのにすごく安い」と、どの洋品店さんも喜んで買い取ってくれたのです。
上々の滑り出しに気を良くした私は、その後も縫製屋さんから野良シャツを譲り受け、飛び込み営業を続けました。
ほどなくして、私が取り扱う野良シャツはかなりの評判になっていました。わざわざ営業をかけなくても「ウチにも卸してよ」とお声掛けをいただけるようにまでなっていたのです。とは言え、縫製屋さんから譲り受けるシャツだけでは、数に限りがあります。そこで私と父は「自分たちでもこのシャツを作れないだろうか?」と考えるようになりました。もともと余った生地で作られたおまけみたいなシャツでしたので、自分たちでも何とかできるのではないか、と。それで、とりあえず生地を仕入れて、見よう見まねで縫製をし、不格好ながらも独自の野良シャツが作れる体制を少しずつ整えていきました。これが、小川縫製創業のきっかけとなったエピソードです。

漁師さんがこぞって愛用した「トレー下」誕生秘話

自分たちで野良シャツを作れるようになると、地元の商店街以外のもっと広い範囲で商品を売りたい、知ってもらいたいと考えるようになりました。そこで私がやったことは…最初の飛び込み営業と全く同じ。作った大量のシャツを愛用の自転車にくくりつけ、浜松を飛び出して、ひとまずは東に向かって販路を広げていきました。国道150号線をひた走り、御前崎、菊川、相良、吉田町…と、気になった街という街を訪れては、自社の野良シャツを売り歩いていきました。
出張営業を続けていると、ひょんなことから大きな転機が訪れました。舞台は焼津です。いつものように自転車を引きながら営業できそうなお店を探していると、ある洋品店に辿り着きました。すかさず飛び込んで野良シャツの説明をしようとすると、そこの店主がこう言いました。「シャツじゃなくて、男物のパンツはないの?」。
焼津と言えば、日本屈指の漁師町。詳しく話を伺うと「かつお船で遠洋漁業に出る漁師のためのパンツがほしい」とのことでした。しかも単なるパンツではありません。

ゴム製のカッパの下に履くパンツがほしいというのです。「肌着の上にそのままカッパを履くと蒸れて仕方がない。だから漁師は、肌着の上にステテコや作業ズボンを履いて、その上にカッパを履くんです。でも、それだとごわついたり丈が短かったりしてあまりよろしくない。だから、ステテコと作業ズボンの中間のようなパンツがあれば、皆喜んで買ってくれると思う」。

話を聞いた私はピンときて、すぐに行動に移しました。浜松に戻って、提案に見合うような漁師専用パンツの開発に取り組んだのです。「丈が長くて、通気性が良くて、適度な厚みのある生地で…。そして何より、漁師さんが快適に仕事に打ち込めるようなパンツを作ろう」。約1週間、何度も何度も試行錯誤を重ねた後、ついに漁師専用パンツが完成しました。オリジナル商品の証として【MARUICHI】と記されたネームを付け、販売をスタートさせたのです。

いつしか「トレー下(した)」と呼ばれるようになったこのパンツは、漁師さんたちの間で大きな話題となりました。「こんなパンツを待っていた!」と言わんばかりに、ものすごい勢いで売れていったのです。ある洋品店では、一度に100ダースもの注文がくることもありました。実は当時の漁師さんというのは、一度履いたトレー下を洗濯することなく、海に捨てていたそうなんです(海水では洗濯できなかったというのもひとつの理由だそうです)。だからこそ、安くて、使い勝手の良い【MARUICHI】のトレー下はとても重宝されているとのことでした。
「このパンツならどこでも売れる!」と踏んだ私は、静岡県内のみならず、全国の漁師町を巡る旅に出掛けます。九州から東北まで、数年かけて飛び込み営業をしました。予想は的中し、どこに行ってもトレー下は大ヒット商品でした。バンの荷台がギュウギュウになるまで積み込んでも、2~3店ほど洋品店を回ると空っぽになる。そのくらい売れに売れたのです。「この【MARUICHI】のネーム、見たことある」とか「これこれ、これが欲しかったんだよ」とか、私が知らないところでトレー下が話題になり、愛用されていることに、この上ない喜びを感じました。

また、静岡県内では、舞阪漁港(浜松市西区)で特に人気があったようで「舞阪パンツ」の愛称で親しまれているという話もありました。人気のピークは1960年代。毎日100枚縫製しても間に合わないほど注文が殺到し、毎月5,000~8,000枚のトレー下を販売していたと記憶しています。

エプロン、祭り衣裳へと転換し、今、次なる挑戦へ

景気の良い状況に暗雲が立ちこめたのは、1970年代。200海里水域制限のルール制定、中国製の安価な商品の台頭、外国人労働者の増加といった影響により、トレー下の販売数はみるみる減少していきました。そこで次なる一手として生産をスタートさせたのがエプロンです。一般家庭で使用する布製エプロンからスタートし、その後、防水性と軽さに優れた「シャミーデラックスエプロン」へと進化していきました。特に「シャミーデラックスエプロン」は今なお人気を博すロングセラー商品です。これまでに累計15万着以上の販売実績があり、外食産業関連をはじめ、給食センター、福祉施設などにお勤めの方々から大変な好評をいただいています。

加えて、当社が力を注いでいる祭り衣裳の生産を始めたのもこの頃です。浜松市にある老舗祭り洋品店さんからのご依頼を受け、股引や腰掛、鯉口シャツの生産をスタートさせました。今では「股引と腹掛の専用工房」を自負するほど、弊社の売上げの核となっています。また近年では、祭り衣裳に限らず様々なカテゴリーのオリジナル商品の開発とネット販売、伝統的な「正藍染」のオリジナル生地を使った商品開発などを着々と進めています。

長引くコロナ禍において弊社も相当なダメージを被っていますが、70年以上培ってきたこだわりの縫製技術とお客様との厚い信頼関係を絶やさぬよう、地道に、勇敢に、信念を持って、より多くの方々のご期待に応えられる事業展開に邁進していく次第です。今後とも、私たち小川縫製への変わらぬご愛顧のほど、何卒よろしくお願い申し上げます。